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 ピアノと私の人生
ピアノと私の人生
阿部光汪


 我が家へ初めてピアノが入ったのは、一九五一年のことであった。
 戦争が終って六年目、社会は混沌としていた。その頃、国内のピアノ生産は、再開されてなかった、と思われる。
 今から考えてみると、そのピアノは一九三五年頃の、ヤマハ100型であった。

 戦前のピアノの価格は、家一軒分などと言われた程の、超高級品であった。
 私の家は、東京都渋谷区神南町、現在のNHKの近くに在った。私の本籍もそこにある。
 当時その周辺は、ワシントン・ハイツと呼ばれ、米軍高級将校の白い家が多く、まるで別世界であった。
 ピアノは、宮益坂のK楽器店より購入した。現金で二十万円、母は値切ることもなく支払った。サラリーマンの平均月収が、一万円にも満たない時代であった。
我が家の本拠は茨城県に在り、その家は学校に通う四人の子供達の家であった。
長兄はW大学へ通い、ピアノはN女子大へ通う姉のものであった。

 ピアノは、お手伝いさんしか居ない時に搬入された。途中には石段もあった。「たった二人で持って来た」と言って、彼女が興奮して話しているのを、今でもはっきり覚えている。
私は後年、その重いピアノを運ぶ仕事をするのだが・・・・、生まれつき非力貧弱な男が、力仕事をするとは、夢にも考えられない話である。
 その頃の渋谷駅前には、証券会社のビルが在り、他に大きな建物といえば、東横デパートぐらいなものであった。正に隔世の感がある。
私は毎日ハチ公の銅像の前を通り、常磐松の中学校、仮校舎へ通っていた。
帰りは美竹町方面へ、寄り道をする。美竹町には、巨人軍の強打者、青田昇選手の新築の家があった。
 そして渋谷松竹の脇を通って帰宅するのだが、途中に宇田川町の呑み屋街があり、その呑み屋の二階に、東急フライ・ヤーズの大下弘選手が、少しの間居たことがあった。
ある時同窓のM君と、道の脇でキャッチボールをしていたのを、私は見た。
青田選手が、瀟洒な家に住むのならば、大下選手は、大邸宅に住んでなければ、おかしな名選手であった。この一件を見ただけでも、彼の「波乱万丈」が、思い当る。
 その頃渋谷松竹で、あの伝説の美女「原節子」の本物を見たのも、いい想い出である。彼女は正に大輪の薔薇であった。
 帰り道にイナバ・ピアノの前を通ると、同級生の「稲葉君」が、「この店は僕ん家でやっているんだ」と言う、子供らしいホラを吹いたのも、楽しい想い出である。
その十年後、そのイナバピアノの商品を、運ぶ事になるとは、思いもよらない事であった。

 私が二年の時、本校舎は松濤中学として完成した。
戦後初めて完成した、本格的な鉄筋コンクリートのモダンな建築であり、東京都のモデル・スクールでもあった。
 その頃、珍しい階段教室や、二階にはそれまでにない広い廊下もあった。
渋谷の松濤町は、超高級住宅街である。佐賀藩の鍋島邸を始め、有名俳優の家や、著名人の家が多い所である。
 因に占い界の女王、H・K女史も松濤中学の出身であり、私の家にもお見えになったこともある。

 担任の渡辺先生は、音大の出身で、当然ながら、音楽の先生であった。
家庭訪問の折に、我が家にピアノがあったので、かなり驚いたらしい。なにしろ学校にも、オルガンしかなかった時代である。
 それ以来、先生は週に一回、私の家へピアノを弾きに来るようになった。
その結果、私の通信簿の音楽の成績は、最高のランクに上がった。当時の私は、ピアノに触れたこともなく、音楽に全く無関心であったので、本当に恥ずかしい思いをした。
 同級生には、優秀な生徒が多く、一つのクラスで、無作為に分けた一つの私のグループの、八人の内の中、折居君、福原さんは、その後、東京大学へ進学した。
 自慢ではないが、勉強をしたことがない(全く)私は、高校へ進学する意志さえ、持っていなかった。
 私の成績が心配で、部屋が余っていた我が家では、家庭教師として、W大学の学生を下宿させたが、私は知的な面には興味の無い、少年であった。
そうした私でも、N大学の附属高校へ入学したのだから驚きである。
 その頃の私は、アメリカ映画に夢中で、有楽町界隈の、ロード・ショウ映画しか見ないという、生意気な少年であった。
 当時のアメリカ映画は、歴史に残る名作も多く、後世に残る大スターも多かった。
スターと言えば、ハリウッドでその昔活躍した、「早川雪州」氏と話をしたのは、十代の貴重な想い出の一つである。
 代表作、「戦場にかかる橋」の、数年前の事である。思い起こせば、カラー映画を、総天然色などと言っていた。懐かしい時代であった。

 一九五四年頃から、ついに隆盛を極めた我が家の命運も傾き始めた。
いつの間にか・・・・、応接間からピアノが消えて無くなっていた。ピアノは姉が十五万円で売った。
 兄と姉達は結婚し、母と私は渋谷を引き払い、新宿区西大久保に移り住んだ。
この頃の想い出としては、隣の高級アパートに、人気絶頂の漫画「赤銅鈴之助」の作者、T先生が住んで居たことであった。
 毎夕、あの調子のいい主題歌がラジオから流れていた。探鉱で苦労して来たT先生が、世に出した、空前絶後の大ヒットであった。

 この引越を機に、心機一転、私は自身の身体を、徹底的に鍛えようと決心した。
そして水道橋にある、「後楽園ボディビルジム」に入会した。
時代はあのヒット曲、「有楽町で逢いましょう」が、流れていた頃である。

 流石は後楽園である。ジムは日本で最初の本格的な設備があった。しかしボディビルは黎明期であり、指導者は、戦前の海軍体操の権威である、鈴木智雄先生であった。
その理論の根幹は、「柔軟・強靱・かつ巧緻」。人間の肉体は、強くそして柔らかく、巧みで繊細な身のこなしをしてこそ理想である。というものであった。
 この理論は、すべての道にあて嵌り、それからの私の人生に役立った。
 トレーニングが終了すると、鈴木先生の体育論と、人生訓を拝聴すべく、会員が集まる。
「諸君は画家のピカソが、老齢に達しても、何故あのような、力強いタッチの絵が画けるのか、考えたことがあるか・・・・。それはあの体力が、逞しい胸板が、あの素晴らしい絵を画かせるんだ」
 「美」より先に走っているという、ピカソの絵が、私に分かる筈もなかったが、力強いタッチであることは、理解できた。
 鈴木氏の声は大きく、眼光に迫力があり、話に説得力があった。
「・・・・芸術も結局も体力である。その意味では、私が現在コーチをしている、作家の三島由紀夫先生の作品も、この先かなり違ってくると思う、それにしてもあの方は、緻密な人だなあ、私は小説家というものを、完全に誤解していたよ、先生の人生は何もかも計画性があり、その上非常に意志がお強い、あの頭脳に、力と筋肉が付けば、何か人が驚くような事をやる方だなあ・・・・」
 海軍相撲の猛者であった鈴木氏は、いみじくも三島由紀夫氏が豪傑と言った人物であった。
 これが、三島由紀夫という名前を、初めて生で聞いた時であった。正しく豪傑、天才を評するという場面であった。
 嘗て数百人の軍人を、一声の号令で動かしただけに、すべての言動に、底知れぬ迫力があった。

 そうしたある日のこと・・・・、私が大鏡の前で、トレーニングをしていると
「君、その君の身体付きは、“蒲柳”の質と言って、鍛えても鍛えても、筋肉が付かない体質なんだよ、人生努力をすることも大事であるが、自分の道をいち早く見つけることも、必要である。まあ野球のチームで言えば、ピッチャーでもなければ、四番バッターでもない。よくてもライトで九番だなあ、それよりもベンチでスコアラーでもやっていた方が、チームの為にもなるなあ」
 私は愕然とした。努力をしても、筋肉が付かない体質。そうした身体というものがあるのか・・・・。道理で、力も無ければ、筋肉も付かない筈である。
 知的な障害を有する人が、学者になるようなものなのか・・・・。
何事にも、あっさりと妥協して、金銭にも、地位にも拘泥することのない私であったが、「力」と「筋肉」に関しては、「あ、そうですか」と、引き下がるわけには行かなかった。
「何もあそこまで言わなくてもいいじゃないか、その内、必ず良くなるよ」
 ジムメート達は、そう言って、私を慰めてくれた。
「籠に乗る人、担ぐ人、更にそれまた造る人、君はやっぱり、籠に乗る人なんだよ」
 そんな穿った表現をする、年上のジム・メートがいた、「石川さん」だった。
 いつもソフトな表情で、彼は私に接してくれた。一体彼は何者なのか・・・・。私達は互いに詮索することもなく、友人となった。
 その後私は、彼が東京大学大学院生で、東洋哲学を専攻していることを知る。
 石川さんは、私の家へ来た時、我が家の仏壇を見て、本当に驚いたらしい、その仏壇は祖先が一九三六年に特別に誂えた物で、高さ一米九五センチ、横幅一米七十センチの物であった。当時金一万円で造った代物である。
 そうしたことから、籠に乗る側の人と思ったらしい。実を言うと、私の家はパンク寸前で、実際に破産してしまう。

 腕力もなければ、学歴もなく、職人になれる程の器用さもなく、これといった特技もなく、おまけに愛想もない。無い無いずくしの私であった。
 人生設計も大事なことであるが、私に言わせれば、「無知」こそが、生きる力である。
学歴偏向の教育ママが聞いたら、気絶するような理論である。

 夢中でトレーニングをやっているものの、平均身長よりも十三センチ高いこともあり、私の筋肉は逞しくならなかった。
 しかし、二年が経過する頃から、変化が出始め、少しずつ筋肉型の体型に変って行った。
当時東京都では、後楽園競輪を許可していた。その期間中は、ボディビルジムは、競輪選手達が使用するので、メンバーは他のジムで、身体を鍛える事になる。
 私はコーチの米内さんがマネージする、東横線の、自由ヶ丘ジムに移ることにした。
コーチの人柄もあり、自由ヶ丘に移っても、少しの違和感もなく、トレーニングを続けることができた。
 後楽園とは違い、力や筋肉で目立つ練習生もいない、気軽にできる場所でもあった。
初期のボディビルのトレーニングは、例えばベンチプレスにしても、現在のようなラックが付いてないので、一人で行うようなことはなく、二人が左右に分かれて、バーベルを胸の上まで挙げてやり、一回、二回、三回と回数をカウントしてやる方法であった。
 すべての練習生は、名前と顔が一致して、アット・ホームな小さなジムであった。

 自由ヶ丘は、当時からお洒落な感じのする街であった。
 そうしたメンバーの中に、「先生」と呼ばれる若作りの人が居た。その人がジムに現われると、米内コーチを始めとして、誰もが敬意を表して、接していた。
 頭はクルウ(船などの)カット、白のVネックのセーターは、鮮やかなエンジ色の縁取りがしてあった。そして足元は、バスケット・シューズであった。
 ジムの窓から外を見ていると、通行人の殆どが、振り返って彼を見ている。
 この時代、バスケット・シューズを街の中で履く人はいなかった。
 そしてその次の日は、黒の革ジャンパーに、黒のシャツ、そして黒の細身のズボンである。
 アメリカ映画をよく見ていた私は、それが誰の真似なのか、すぐに分かった。
 白い方は、ヒッチコックが監督した、「見知らぬ乗客」の主役、ファーリーグレンジャーを気取ったものであるし、革ジャンスタイルのほうは、「乱暴者」の暴走族、マーロン・ブランドのコピーであった。
 それは三島由紀夫氏であった。当時の三島氏は、週刊誌のグラビヤに登場するようなこともなく、一般的な知名度は低かった。しかし氏の作品、「仮面の告白」や「禁色」、「金閣寺」の本格的な読者の間では、天才と言われていた。
 その後、石川さんの進言により、それ等の文芸作品を読破した私であったが、当時は読んだこともなく、「先生」に対して、意識して接した覚えもなかった。
 見事な、人間の内面世界の描写・・・・、三十歳までの、自身の肉体へのコンプレックス・・・・。三島氏の世界を知ると、ボディビルを始めた動機が、痛いほどよく分かった。
当時の三島氏のベンチプレスの力は、三十キロ位のものであり、私は六十キロぐらいであった。その後・・・・、努力の末、三島氏は八十キロ、私は百キロを十回位、挙げることができた。
 いずれにしても「筋力」というものは、予想外の変化を、人の生き方にもたらす。「呼吸」が重大な影響を与えるのだ。
 深く息を吸い、そして一瞬止めた後に、すべての息を吐き出す。数十年の効果は多大なものである。
 自由ヶ丘のジムの風呂は、かなり小さいものであった。その日友人と約束のあった私は、脚だけ洗うつもりで、風呂場に入った。
洗い場に入ると、コーチが「先生」の背中を流すとこであった。
 その時、「米内コーチ、至急の電話が入っております」、と言うアナウンスがあった。
コーチは、無言で私に石鹸の付いたタオルを差し出した。
 若い私は内心、少し「ムッ」とした。・・・・何で俺が、この人の背中を流さなくちゃならないんだ、と思ったことは事実である。
 どちらかといえば、米内さんの人柄が、私に先生の背中を流させた。頭を洗っていた先生は、誰が背中を流したのか、分からない筈である。
その十年後、私は「憂国」という三島氏の映画を観て、本当に驚いた。これがあの貧弱であった先生の身体であろうか・・・・。
 尚、当時自由ヶ丘ジムで先生が使用していた三十キロのバーベルは、現在私の家にある。

 その後私は、後楽園から渋谷のジムに移った。後楽園では広島の金沢氏と、渋谷では名塚氏と、いずれもミスター日本に輝いた人達と、トレーニングをしたのは、良い想い出である。
 私の身体は大きくなり、力はかなり強くなったが、筋肉の“キレ”というものが付かなかった。
それでも、普通の人の目からは、驚異の目で見られるまでに成長した。
 その後更に、数年間トレーニングに打ち込む日々が続いたが、私は「挫折」を感じ始めていた。
 そうしたある日、新宿西大久保の自宅近くで、「ピアノ運送業」をやっている、平岩兄弟と、バーベルが縁で、友人となった。
 こうして私は、極く自然に、ピアノ運送の仕事に関わるようになった。
 ピアノは重い物である。という事は十分承知していた私であったが、「職業」としてやってみると、その扱いの、やっかいで困難である事を強く思い知らさせる。
 最初の数日というものは、まるで仕事にならず、私は屈辱を味わう。
 ベンチプレスをやった場合、私のほうが十五キロ重いバーベルを持てるのであるが、二百四十キロのピアノを二人で持った場合、私はまるで「素人」となる。
こんな筈でなかった。と思いが数日続いた。
 やはり「ピアノ運送」を職業としてやって来た兄弟の、誇りと意地が違うのである。
 しかし数日して私は、すべての技術を会得する。「力こそピアノ運送の基本」なのだ。
 力仕事という言葉があるが、当時の業界には、小型クレーン車も無く、すべての作業に力が優先した。
 団地に住む人々が、競ってピアノを買い求めるようになり、二階、三階、四階、ある時は五階と、ノンストップで、二人だけで作業することもあった。
 普通家屋の二階への搬入は、「丸太上げ」と言って、太いロープで二階へ上げる。 
 ピアノは、信じられないようなスピードで、二階へ引き上げられる。その意気と熱気に、顧客は息を呑む。
 折からのピアノブームで、明るい内に仕事が終った事がなかった。無駄金も使うようなこともなく、おまけに臨時収入も多く、私はやっと、母を安心させることができた。

 ピアノという楽器を扱う関係から、テレビ局の生番組も多く、(ビデオの画質も悪く)一流歌手のステージ等、目先の変化もあり、毎日の仕事に張りがあった。
 私は完全に生れ変った。力は力を呼び、どんな重労働をしても、「疲れ」というものを、感じたことがなかった。
 同時に自分に厳しく、仕事を終ってからも、トレーニングを欠かした日はなかった。重さはすぐに分かる。今日よりは明日、そして更に重いバーベルと、会社の仲間と共に、身体を鍛えた。
 こうして私が生い立ちを述べてくると、真面目くさって、ユーモアの欠片もないような青年のような印象を与えるが、私は冗談の名手であり、仲間達は私の話に身をよじり、絶えず笑いの輪ができていた。

 一九六二年頃から、三島由紀夫氏は、あらゆるメディアに出るようになった。新聞、週刊誌、テレビ、映画、歌・・・・。
 小説など読んだこともない人達も、三島由紀夫の名前を口に出すようになった。そして必要以上にその「筋肉」を、人々に披露した。
 そして剣道を修業して数年経てからの、政治的な発言も多くなった。
 文章にも、一人称や三人称もあるように、「私は何をすべきか」、「我々は何々をすべきか・・・・」という二方向があるが、三島由紀夫という天才は、典型的な一人称の生き方で、その生涯を全うしていただきたかった。

 その頃住んでいた家は、小さいながら使い勝手が良く、新宿の中心にも近く、とても住みよい所であったが、一九六四年の春になって、ある複雑な事情が生じた。
 この事を機に、私は母と共に、親戚縁者の多い、茨城県日立市に移り住むことになった。
 そして日立市のヤマハピアノの代理店、「映光社」に就職することになった。映光社は戦前からある楽器店で、一流歌手は必ず挨拶に顔を出す、レコード店である。
 私の入社した当時は、水戸にも支店があり、社内旅行は、大型観光バス二台で行くほどの隆盛を極めた。
 私の仕事はピアノの運送、設置作業であった。この時期から地方にも、ピアノ・ブームが波及し始め、他社からの要請も多くなりだし、一九六五年私は、「阿部ピアノ運送」を発足させた。
 どんな職業も経験がなくてはできないが、特にピアノの運送には不可欠である。幸いなことに、若手の経験者で、後輩でもある三人が、私の旗上げに参加してくれた。
仕事が最初から上手く回転したのは、運送の技術、とりわけ団地の狭い階段の搬入を、最大の「売り」にしていたからであった。
 当時は小型のクレーン車などもなく、仮に有ったとしても、買えるものでもなく、どんな狭い階段でも、ピアノを倒立させて、信じられないようなスピードで、巧みに設置した。
特に日立市にある、日立製作所の成沢団地、鹿嶋市の高天原団地では、私達の技術は、遺憾なく発揮できた。
 鹿嶋市の場合、住友金属のような大会社が進出するまでは、「陸の孤島」などと呼ばれていた所であった。
 「成田空港」などは、政府の構想段階であり、プロのサッカー・チームなど、夢のまた夢の話であった。
 水戸市や、大洗町からトラックで行くとしても、大変な悪路であった。
 関西方面の文化都市から転勤者の中には、運送業者にも、不機嫌な顔を見せる人もいた。
 そうした中、ピアノを持って来たものの、大型クレーン車でも、搬入ができない場所もあり、どうしても極端に狭い階段から、四階、五階と行く方法しか残されていない。
そうしたケースには、我社のテクニックが、最大限に生かされた。何日も倉庫で眠っていたピアノが、ユーザーの部屋に、全くの無傷で入った場合、本当に感謝される場合が多い。
 当時私は三十代の前半であり、体力、気力とも充実していた。そして尚、バーベルによる、トレーニングは一日も欠かさず続けていた。どんなグランドピアノでも、重いと感じたことがなかった。
 こうした日々が続き、現在の場所、ひたちなか市高場にピアノ用の倉庫を、創設するようになり現在に至るのであるが、「会社」という形態を維持して、前へ進めたのは「ヤマハ」様を始めとして、多くの特約店様、その他ピアノ・ユーザー各位様の励ましと、御厚意の賜である、と常に感謝をしている。
 そして創業当時から、経理の面で終始私をサポートしてくれた妻に、「ありがとう」と申し添えたい。
 しかしこれからは、私の息子の時代であり、すべてを「阿部直人」に委ねて、私と妻は、会社からは一歩退いた形で、何等かの協力をしたいと考えている。

 それにしても人生とは不思議なものである。
 「箸より重いもの」を持ったことのない、環境で育った少年が、重い物を扱って、全く予期しないような人生を歩む・・・・、これが人生かもしれない。